2013年1月16日水曜日

おトイレごはんな若者(後編/本論)

【All About News Dig】連動エントリー


独りぼっちが怖い・・・トイレで食事 レンタルフレンド
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1357295244936_02/news/20130107-OYT8T00095.htm

さて前回のエントリーは単なる長い前フリですが、実際に「トイレで食事をする若者」の話は大学で教鞭をとられる方から耳にすることがあります。

人間の食事行動から考えて、「不浄」だと認識しているはずのおトイレでごはんを食べるという行為は、本来避けたいことのはずです。「クサイものが苦手」な人が多いのは、「腐っているかもしれないモノを食べない」という防御本能の名残だという有力な説があります。

そのあたりについては、近日中に某ニュースサイトにUPされる予定の『居酒屋のつまみを劇的に旨くする技術』(監修:伏木亨/作画:筆吉純一郎)についての僕のレビューを参考にしていただけると幸いでございます。

話を元に戻します。「トイレという衛生的にリスクの高い場所で食事を経口摂取する」という行為は、本来人間にとっては避けたい行為のはずです。しかしその「避けたい行為」をしてしまう。それほど、コミュニケーションは若者を追い込んでいるということでしょうか。

もちろん、ほかにも「そもそも個食習慣があるから、トイレでの食事に抵抗が少ない」とか「ひきこもっていたら、友人と食事をする体験も少ないはずだ」とか、あれこれ理由は考えられるでしょうが、「個食≒トイレ」ではありませんし、高校生まで個食一筋では、そうそう大学生にはなれないでしょう。にも関わらず、確実に一人になれる場所を選択してしまう。

2000年代に入った頃、大学生が当たり前のようにケータイを持ち始め、ケータイメールやmixiなどのソーシャルメディアの手助けを得て、互いに強固につながり始めました。その頃から、大学生の「コミュニケーション」についての悩みが加速し始めた印象があります。

当時、学生に話を聞いたところ、「(内容はともかく)とにかく速く打ち返す」「(展開はともかく)美しく収束させる」の2点に注力しているという回答が返ってきました。「夜、寝ている間にメールが来たらと思うと、おちおち寝られない」とも。やー、大変です。その先に「おトイレごはん」(※)があるということでしょうか。

実は動物のなかでも「共食」という文化があるのは、人間だけという話です。以前、ゴリラの生態を研究している第一人者の先生に取材をしたことがあります。そのときの内容は以下のようなものでした。
・サルには食べ物を分配するという考えはない。
・チンパンジーやゴリラなどの類人猿でも相手から要求されれば分配することもある。
・要求云々ではなく『共に食事をする』ことを文化レベルで共有できるのは人間だけ。
・つまり、「共食」は人間を人間たらしめている基本的な能力である。

誰かと食事をともにすることで、自分が食べられるのは何個までかとか、嫌いなものを相手と交換する交渉能力など、さまざまな力を身につけていく。つまり、人間は「食」を通して、他者との関係の取り結び方を学ぶ動物だというのです。極論すれば、その技術が高いほど、人間として強くいることができる。

しかし、対人関係を取り結ぶ技術や体力が未熟な現代の若者は、僕らの頃よりもはるかに高度で濃密なコミュニケーションを要求されています。未熟で繊細なのに、高度なコミュニケーション技術を要求される。そのことに耐えられないからこそ、個室に駆け込むとも考えられます。

もちろん、いますぐ学食で同級生たちと楽しく食事ができるようになれば、こんなに素晴らしいことはありません。個人的には、「前のめりに行こうぜ!」と言いたい気持ちもあります。でも学生時代というのは、社会に出るまでのモラトリアムでもあります。いまの学生に課されたタスクは、コミュニケーション以外にも膨大にあります。ならば、コミュニケーションに必要な技術や体力が身につくまで、個室に閉じこもって、歯噛みする時間があってもいい。それは、いつかきちんと一歩を踏み出そうとするとき、心のバネにもなるはずです。

ここまで書いて、現在公開されている映画「鈴木先生」のテレビドラマ版を思い出しました(原作はマンガです)。昨年の放送されたテレビドラマのなかで極私的No.1だった「鈴木先生」の作中に「(考えや行動を選択することは)許されている。ただ許されているだけである」というようなシーンがありました。生徒のセリフには「どっちが正しい、どっちが間違っている、じゃない」というものもありました。

「がんばれ」などという月並みで、人によっては負荷のかかる言葉をかけるつもりはありません。ただ、トイレに駆け込みたくなったり、大勢のなかでの孤独を感じたら、その時には抱えている悔しさや寂しさと、懸命に向き合っていただきたい。その体験はいつかきっと「もうあの頃には戻らない!」という強い意思に変わります。そうなる頃には、きっと気のおけない誰かと楽しく食卓を囲むことができるようになっているはずです。

※ 「おトイレごはん」は特に美化したいわけではありませんが、例の「便所●」という言葉を使うのが、生理的にまったく受けつけられないので、少し丁寧な言葉に置き換えさせていただきました。あしからず。

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