2013年3月26日火曜日

カイモノとハコモノ

【All About News Dig】連動エントリー
後から考えると、「なぜ」と思う量、ものをなぜかその場ではほしくて仕方がなくなってしまう。衝動買いの魔力、恐るべしです。

閉店間際で半額だからと、夕食の食卓にのぼるかわからない刺身を買ってしまう。もしくは「いまから17時まで、もやしが1パック5円!」などと煽られると、ついついそのコーナーにダッシュしてしまい、周囲の方々から「あんたはおばちゃんか!」という心のツッコミを頂いているような気すらするわけです。

その一方で、いい年した男3名ほどで飲み会のつまみをスーパーに買いに行くと、やたらと盛り上がってしまいアホほど買い物をしてしまいます。留守を家主夫婦に任せて、好き勝手に買い物をして「一人4000円なら安く上がったね」などとご満悦。

これが男の飲み会における衝動買いにありがちなパターンであり、金銭感覚です。一人4000円という金額は、家呑みにしてはまるで安くありません。買いすぎです。消費しきれず、飲み会の終盤には「うう。苦しい」を連発したり、「残った食材は寄付するね」などと言い残し、相手の冷蔵庫の都合も考えずに、そのお宅を後にするわけです。

ところで以下のニュース。衝動買いだったのかは、よくわかりませんが、飲み会時の男の買い物と大変似ております。

江戸~昭和のおもちゃ計6億円 大阪府が民博に譲渡
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20130312-OYT8T00429.htm

上記の状況を整理しつつ、妄想を膨らませると以下のような流れでしょうか。
・1993年、大阪府「資料になりそうなおもちゃ、5万点以上、約6億円分を買い集めたYO!」
・1999年、総工費171億円をかけた話題の大型児童館「ビッグバン」におもちゃの一部を展示
・2008年、橋下徹知事(当時)、就任直後に「ビッグバンは廃止、もしくは売却を」とご指名
→「そこをなんとか!」と廃止はまぬがれる。
・2012年、府の監査委員「そういえばあのおもちゃ、維持費だけで年間400万円かかってるし、お前が持ってても意味なくね?」とツッコミ
・2013年、「あわわ。どなたかお引取りを!」→国立民族博物館「くれるなら、もろとこか」

ううむ。どことなく、男による飲み会つまみの買物ツアーと似ています。全体を見ることなく、自分の好きなつまみをカートにドカドカ放り込んだものの、食べきれずに家主の嫁から「や、もう、おまいらには買い物には行かせん」と叱られ、家主からは「ていうか、こんなに買ってきてどうすんだ」と頭を抱えられる。「食べるから許してー」と懇願するも、やっぱり食べきれず、家主に寄付という流れでしょうか。ありがちです。僕も数年前までこんな感じのことをよくやっておりました。

もっとも決定的に違うのがおカネの出どころ。友人同士の買い物では、男の買い物隊に食材……ではなく贖罪意識が発生し、少し多めにおカネを払ったりしそうなものです。もっとも、大阪府のケースでは6億円のおもちゃ購入を決めた部署や担当者が、弁済したり詰め腹を切らされたとかいう話は聞こえて来ませんが。

「まったく何のために、あんなものまで買ったのか……」とため息混じりに聞こえてくるグチが大阪府民のものか、数年前の僕の友人夫婦によるものなのかはよくわかりません。ともあれ、おすそわけされたことで、貴重な資産を冷蔵庫で腐らせるようなことにならないと思えるのは、よかったような気もします。

しかし、余剰分がおすそ分けされた先でどうなるかはわかりません。余剰資産というか、ただムダなスペースの移転に過ぎずに終了ということも十分に考えられます。結局のところ、自分の身の丈に合う量を買うのがいいという、ごく当たり前の結論にたどり着くのは、それが圧倒的な真理だからかもしれません。

2013年3月21日木曜日

裸婦像と恥の文化とBlogという発信ツール

なんだかあちこちのメディアで、結構な騒ぎになっている、島根県奥出雲町。昨年夏に公園などに設置したダビデ像とビーナス像という、 巨大な裸像を目にした町民らは「子どもが怖がる」 「教育上ふさわしくない」と町議に苦情を申し立て、町議会でも取り上げられるなど 世界中から注目をあびているそうです。

この件について、奥出雲町の町議さんは去年の9月の時点でBlogに以下のようなエントリを投稿されてらっしゃいます。
http://ameblo.jp/tomuramura/entry-11345897420.html
http://ameblo.jp/tomuramura/entry-11475423040.html

>寄付していただく段階で、もっと他のもの(スサノオ像や稲田姫像、
>遊具や休憩所等)や現金にしていただくことはできなかったのか。
>設置されて数日しか経っていませんが、かなりの反響というかクレームがあります。
>それは、そうでしょう。奥出雲との景観とはマッチしないし、
>子どもたちも多く集まる場所に、男女の裸体の像ですので。。。

うーん。台座の原資として、1500万円という町の予算が使われたことに疑問を呈しながら、寄付が(他のものや)現金にならなかったものかという謎の変化球を投げていらっしゃいます

さらには「景観とはマッチしない」というなら、奥にある極彩色のブランコのほうが、よほど景観にはマッチしません。町民から疑問の声が上がっているということであれば、町議さんとしてはこういうエントリになるのは仕方がないのかもしれませんが、歯切れが悪い上に、どうも話の展開がうまくないような気が……。

ところで、実は日本において似たような問題は100年前から起きていたのだとか。

>当時は芸術であることを強調するため、日本人離れしたプロポーションに描いたり、
>腰巻で下半身を隠したりと、さまざまな創意工夫がなされた。

記事中では「明治期に初めて裸の絵を見た人は、笑うか、『肝心なものが見えてない』といって怒るかの2種類の反応が大半で、そうした時代に多くの画家たちは『芸術としての裸』を確立すべく苦心」してきたという識者の意見を紹介しています。

日本人は「羞恥」の概念が強いと言われます。文化人類学者のベネディクトが1946年に出版した『菊と刀』のなかで、日本人を「恥の文化に属する民族だと規定したのはあまりにも有名な話ですが、果たして本当にそうなんでしょうか。

20メートルの巨大裸婦像が英国の町に 「わいせつ」「グロ」と物議醸す
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1210/18/news121.html

「芸術か、それともワイセツか」学校前の巨大裸婦像看板が話題に―中国(凜)
http://kinbricksnow.com/archives/51754767.html

結局のところ、今回のような問題は全世界で起きている模様で、本当に問題なのは、歳費で裸婦像を展示することでも、「町民から疑問の声が上がったから」と俎上に上げたことでもなく、問題提起の手法を含めたディベートや情報発信の技術なのかもしれません。一昔前なら、こうした話題が世界に向けて発信されることもなかったでしょうから、町長さんも町議さんも奥出雲町自体もちょっぴりかわいそうな気もしないでもありませんが、町議さんにおかれましては、Blogで発信している以上、こうした話題になるのもまた、仕方のないことだと割りきって、日々のお仕事に邁進していただきたいとエールをお送りさせて頂きます。

2013年3月12日火曜日

その「魂」は合っている?

【All About News Dig】連動エントリー
零細ではございますが、僕は小さな編集プロダクションを経営していたりして、社是というか、絶対に守らねばならない心得みたいなものを自分や社内に課しています。

「三方よし」。江戸時代に近江商人の商売の心得で「売り手よし、買い手よし、世間よし」を「三方」としたものです。商取引をしたときに、売り方、買い方、双方が喜んだ上で、世間も喜ぶような商売をしようという、心がけを言語化したものです。

実際の仕事のどこにどれくらい反映しているかと聞かれるたら、すべてに具体的に答えられるわけではないかもしれません。でも、迷ったときに原点に立ち返るきっかけや、万が一「三方よし」が実現できなかったとき、反省し、検証する土台の考え方にはなります。

ところで、先日「新入学生の親が選ぶ、(子どもに持たせたい)携帯キャリア」に関する調査結果を目にして、アゴが外れそうになってしまいました。見出しに「新入学生の親が選ぶキャリア、安心・安全・低料金でau……子どもが選ぶ端末は iPhone」とあったのはともかくとして、驚愕したのは「子どもに持たせたい機種でスマートフォンを選択した理由」です。


1位 子どもがスマートフォンをほしがっているから
2位 自分と一緒(同系統)の機種だから
3位 今後スマートフォン以外の携帯電話は時代遅れになるから
4位 インターネットが使いやすいから
5位 機能が豊富だから
6位 アプリやサービスが充実しているから
7位 親との連絡が取りやすいから
8位 スマートフォンを持っていないと時代についていけなくなるから
9位 持っている人が多くて安心だから
10位 勉強に役立ちそうだから

調査の前提として「携帯、それもスマホを買い与える」があるにしても、何のために携帯(スマホ)を買い与えるのか、まるで理由になっていません。もちろん選択肢に誘導された面はあるにしてもです。よく昔のドラマで「人様に迷惑をかける子にだけはなってくれるな」というセリフがあったような気がします。上記の調査からは買い与えることでどういう人間に育ってほしいか、まったく見えないのです。

強いて言えば、3位は「先進的な人間になってほしい」という意図があるような気がします。もっともスマホの機能ごとき、大学に入ってからでも楽勝で覚えられるでしょう。ほか、8位に関しては「友人とのコミュニケーション構築に必要だから」という理由であれば理解はできます。しかし学生が使いそうなほとんどのアプリはガラケーでもほぼカバーされています。

上のふたつについては「早いに越したことはない」と考えるのは理解できるにしても、他の選択肢はどういう理由で選んでいるのでしょうか……。2、4、5、6、7位あたりの上位は根本的な考え方が間違っているというか、親自身がスマホを含めた携帯電話の機能をよく理解していないような気が……。

上記調査で「機能性」を挙げる人がたくさん見受けられます。しかし、子どもにスマホを与えたら必ず遊びの道具として使います。「UI(ユーザーインターフェース)が直感的ですぐれている」と言われるiPhoneが子どもに人気なのも、すぐに遊びに使えるから。もし買い与えるなら、遊び道具と割りきって買い与えたほうが、後々親も子もお互いにダメージが少なくて済むのではないでしょうか。そもそも高い機能で何をさせたいのか、意味がわかりませぬ。

僕は主にガラケーを使っていて、サブで電話機能のある7インチタブレットをスマホ代わりに使っています。僕がスマホ(的なタブレット)も使う理由はただひとつ。メディアやアプリの制作に関わるとき、使ってみないとユーザビリティがわからず、動作確認ができなければ仕事にならないからです。

極論すれば、すべてのツールやサービスは、自分の将来のためになる材料を収拾するためにあると言ってもいい気がします。その判断が子どもにはできない(もしくは親を説得する言葉を持っていない)。そこで「買ってあげる理由」を親がわざわざ探さなくてもいいのではないでしょうか。でも、子どもがスマホを使うことによって、どんな人間に育ってほしいかという「理念」はあるんでしょうか。

仮にないにしても、「親である自分が自己満足のために買い与えたいから買うのだ」くらい言い切ってくれたほうがまだすっきりします。「子どもがほしがっているから」とか、子どもに責任を押しつけちゃうのは、いかがなもんでしょうか。

僕の大好きなマンガに「大東京トイボックス」(うめ)という作品があります。その第一巻に駆け出しの新人が持ち込んだダメダメな企画書に対して、主人公がなんとかホメどころを探すシーンが登場します。そこで主人公の天川太陽が言った言葉は……。

「魂は合ってる」

昭和で本当にすみません。でも、最後の最後、魂が合ってるかどうかはとても大切な気がします。昔のドラマでよく「人様に迷惑をかけるようなことだけはしないよう、躾けております」というような場面を目にしました。それもまた「魂」であり、教育理念の形でしょう。

何かアクションを起こすとき、「理念」とか「志」とか「魂」を見つめることが、何よりも大切なことなんじゃないか。そんな風に自分に言い聞かせて、本日のエントリーにかえさせていただこうと思うわけです。

大東京トイボックス 1 (バーズコミックス)

2013年3月10日日曜日

スナフキンは「涙」に何を思うのか。

【All About News Dig】連動エントリー
ちょっと前に、「◯カツを使うとバカになる」という、言い過ぎなエントリーをさせていただきました。ざっくり申し上げると、「手段の目的化」と「思考停止」にまつわる話です。そんなおり、News Digでまたもこんなお題がやって参りました。


心に効く! 働き女子を救う「涙活」って?
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20130213/145821/

記事の骨子をざっくり要約すると「涙を流すとストレスが解消される。その効果が注目されている。最近では積極的に涙を流そうという『涙活』も行われている」ということのよう(記事構成の順番は逆)。

ちなみに、この記事は「何でもかんでも泣けばいい」と提案しているわけではありません。記事中では、大学の医学部教授を識者に迎え、流す涙の種類や泣くときの作法にも注意を促しています。

「ストレス解消に効果があるのは、悲しいときや感動したときに流す“情動の涙”。これは人間だけが流すことのできる涙であり、神様が与えてくれた宝物のようなものです」

「周りを動かそうとしたり、相手にストレスを与えるような涙はNG。あくまでも自分のために流す涙であるべきです」

どうも「泣けばいい」というわけではなさそうです。そこで何が大切かちょっと考えてみました……(熟考中)。

・目的→「ストレス解消」のため、「副交感神経」のスイッチを入れること
・そのための手法→「感情を動かす」こと

タイトルは「涙」重視。しかし内容を見ると、中盤から後半は「泣けばいいというわけではない」という識者コメントも。しかもその医学部教授は「チャクラ」という言葉を使っている。あれこれ、どう捉えたらいいんだろう、と悩んでしまったわけです。

そんな風に考えると、せっかく副交感神経を刺激するならば、アニマル浜口さんの「笑いビクス」のほうが、自分も周囲も元気になったりするんじゃないかとか考えてしまうわけです。もちろん「涙」という型から入るのもいいと思います。でもあくまでも目的は心をやわらかくすること、そして心が動くポイントを自ら探ることのはず。「型から入るも型に終わらず」というスタンスでのぞめば、「涙活」もうまくいくかもしれません。

ムーミンに登場する吟遊詩人、スナフキンは「涙」にまつわる数々の名言を残しています。

「いざ泣こうとすると、泣けないことってあるだろ?」
「(涙は)実に素晴らしいよ。だから涙はもっと大事にしたいもんだね」

スナフキン! あなたはやっぱりカッコイイ!

2013年3月6日水曜日

シェアとドラマと男と女

【All About News Dig】連動エントリー
以前、「おトイレごはんな若者(後編/本論)」というエントリーを書いたときに、「共食をするのは人間だけ」「個食がコミュニケーション能力の育成を妨げている」という話に触れました。

といっても、共働き家庭が増え、少子化が定着したいま、家庭で「共食」を育むのは難しい面もあります。未婚率も高止まりしたままですし、学校給食や寮生活なら「ともに食べる」ことはできても、料理を作る、片づけるなど、「共食」に欠かせない周辺能力の向上も見込めない。まあ、いい年をして、仕事や趣味にばかりにかまけている僕が言うことでもありません。すみませんすみません。

「血縁」「地縁」を中心とした、昔ながらのコミュニティに加えて、ネットやソーシャルメディアで人間関係が構築されるようになった最近では、別の特徴が際立ったコミュニティも生まれてきています。例えるなら「稼縁」(年収が近く、暮らし向きが似ている層同士によるコミュニティ)、「属縁」(趣味や仕事など、属性が近いもの同士によるコミュニティ)とでも言いたくなる集合体の形です。



先日、東京新聞で「シニアにも人気 シェアハウス」という記事を見かけました。高齢者と若者がひとつ屋根の下で暮らすという、まるで三世代同居のようなスタイルが生まれてきているのだとか。収入が少なかったり不安定な若者と、おそらく年金暮らしであろうお年寄りが共同生活を行なっているというのです。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2013022002000159.html

いま放送している連続テレビドラマ「シェアハウスの恋人」でも「稼縁」とも思える設定は見られます。物語は、主演の水川あさみ(事務職)、谷原章介(離婚して失職)、大泉洋(スーパーの店員)が、それぞれ異なるきっかけでシェアハウスに暮らすようになるというで展開されます。



ドラマのスタート当初には、おそらく説明も兼ねてでしょう。「食べ物・飲み物には各自が記名し、人のものに手をつけてはならない」という、シェアハウスのひとつの特徴が描かれたシーンがありました。ところが、ともに暮らすうちに、大泉洋演じる川木辰平(シェアメイト中、唯一の料理好きという設定)が他の二人に食事を振る舞うようになります。回を追うにつれ、一緒に料理や片づけをしたり、3人で食卓を囲むなどのシーンなども目につくように。正体のわからない「エッグベネディクト」を水川あさみと大泉洋がともに作り、谷原章介に振る舞うシーンなどは、一昔前なら「家族」をモチーフに描かれそうなシーンでした。

「家庭での食事」には、準備も片づけも必要です。誰しも「サザエさん」的な血縁での食事シーンでは、もはやリアリティを感じさせられません。例えば、上戸彩、飯島直子主演の「いつか陽のあたる場所で」の作中でも、屋内での食事シーンは「前科持ち」のふたりがどちらかの家を訪れ、身を寄せ合うようにして食べる「食事シーン限定シェア」とも言える光景が描かれています。

瑛太、尾野真千子らが出演する「最高の離婚」に至っては、離婚したにも関わらず、同居を続行し、食卓をともにするふたりの姿が描かれています(しかも瑛太のほうが細かく、尾野真千子のほうが大ざっぱ)。元夫婦によるルームシェアという奇妙な関係は、今後のふたりの成り行きを暗喩しているのでしょうか。そういえば、つい先日までWOWOWで放送されていた「女と男の熱帯」でも、ふたり暮らしをする渡部篤郎と息子の家を訪れた藤原紀香がおぼつかない手つきでカレーを作るというシーンがありました。

その他、いずれのドラマでも、食卓を囲むシーンに「料理をする」「片づけをする」など前後の風景が描かれています。「家族」をはじめ、コミュニティの形に変化が伺える現代でも、食卓を囲むために必要な作業はあるはずです。だからこそ、ドラマにリアリティを生む「食卓」のシーンは、人間関係を象徴するための装置として、ひんぱんに使われるのです。

実生活でもドラマでも、強固なコミュニティには「共食」という場面が必ずあります。それは「シェア」という、まだありかた自体が明確ではないコミュニティにおいても変わりはないはずです。「食」は誰かとともに過ごすための最強ツール。その準備から片づけまでをともに行い、コミュニティのなかで「共食」を完結させることでその関係はよりしっかりしたものになるはずです。