2012年10月16日火曜日

酒とFacebookとおいしいつまみ



日本酒 本質は食中酒なり
「日本酒は食中酒を目指すべき」と語る堀江さん(出雲市で)
 日本酒を研究している出雲市今市町の酒類コンサルタント堀江修二さん(76)が、約50年間の研究成果をつづった著書「日本酒の来た道~歴史から見た日本酒製造法の変遷」を出版した。焼酎やワインに押されてシェア(市場占有率)が低下している日本酒。著書では「食事に合う『食中酒』を志向した酒造りこそが人気を取り戻す方法」と訴えている。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/news/20121013-OYT8T00969.htm


掲載されたのは、読売の島根版。わかる気もするし、「?」という気もする。「わかる気がする」のは、僕自身が食事と一緒に楽しめるお酒が好きだから。何が「食中酒じゃない」のかはわかりませんが、華やかなお酒も嫌いではないし、まあいろんなお酒が飲めるのは、大変ありがたいことで、ええじゃないかといういい加減な嗜好であり、思考なわけでございます。

「?」と首をひねったのは、「そもそも日本酒は食中酒」じゃないかと当たり前のように思っているので、「食中酒に適さないと若者に言われたことに動揺した」が記事のニュアンス通りだとしたら、まあ落ち着いておとっつぁん。肩でも揉むから、その若者の言ったことが本当かどうか考えようじゃないの。ついでにその「人気を取り戻す方法」が正しいアプローチなのか一緒に考えようじゃないの、と思ってしまうわけです。そんなときにFacebook先生のことを思い出しました。

このところ、Facebookのアクティビティが落ちているように見えます。あれこれ見ていると、投稿に対してつけられる「いいね!」や「シェア」が明らかに減った印象があります。

理由のひとつは双方向を前提としたSNSの構造限界でしょうか。ユーザー増→ユーザーそれぞれの友達増→TLの流速高速化→意識の高いw((C)常見さん)ユーザー投稿の比率減→(見かけ上)ノイズ的投稿増→ますます流速高速化→リーチしにくくなるという、くるくるスパイラルです。「友達多いほうがエライ」的ソーシャルサービスにいつか訪れる、ユーザー投稿飽和状態に目が回りそう。似たようなことは昔、ミクシィさんでもあった気がします。そういえば、あれもユーザー1000万超えた頃でしたっけ。まあ、こちら方面で起きる出来事は仕方がありません。

ただもうひとつが個人的にはちょっぴり不愉快です。FBさんは最近いくつもの「シェア」をひとまとめに表示するなど、投稿流量が減って見えるよう、仕様を変更しました。「宣伝」というポップアップがガンガン出ていることからも、FBさんは有料広告への動線を太くしようと躍起になっているご様子。当初からの課題だった「あのボタンは、いいね!でいいのか問題」や「シェアってどないやねん」問題などを乗り越え、ようやく愛されるようになってきたたインターフェースだったのに、その幹を抱え込んで、何をするかと思ったら、引っこ抜いてジャーマンスープレックス。「俺はお前の噛ませ犬じゃねえぞ」と藤波辰巳(当時)に噛みついた長州力の気持ちが(本当だったとしたら)、FBユーザーとしてはそのお気持ち、よくわかります。

ザッカーバーグセンパイが、そろそろアーリー・マジョリティ層からレイト・マジョリティ層の流入期に差し掛かっていると見て、「それっ! 回収だ!」となったのか、他に何か根拠があるのかはわかりませんが、こういうことをされると、ユーザーとしてはちょー萎えてしまいます。FB様におかれましては、どこかで方針を大きく転換されることを望みます。敬具。

あ、全然違う話になっちゃった。酒だ。酒。酒持ってこーい。というわけで、何が言いたいかというと作り手が「日本酒は食中酒じゃない」とかいう若者の言葉を真に受けていいものかどうかと考えるto、考えるべきは「誰に向けたどんな酒が受け入れてもらいやすいか」。本物志向だろうがなんだろうが、まず飲んでもらえなければなりません。

「日本酒好きは、本当に本格派の酒を望んでいるのか」とか「昔ながらの酒造りという手法で、日本酒嫌いが取り込めるのか」とか「香り高い日本酒は、本当に食事に合わないのか」とか「そもそも、食事に合わない酒なんてあるのか」と考えるほうが先という、ごく疑問は尽きません。そういえば、去年、杉村啓さんが「お米からできた日本酒に合わない食材などない」というタイトルの記事を書いてらっしゃいました。
http://www.excite.co.jp/News/reviewmusic/20110930/E1317310791767.html

さらにそういえば、数年前に似たようなことを書いてたようなブログを見た気がします。あ、あった。これだ。「大量生産されている酒で、これだけ多くの料理に合う酒というのも世界的に珍しいのでは」だそうで。
http://epsiloncafe.blog.shinobi.jp/Entry/62/

というわけで、一般論として申し上げると、たまたま「日本酒が食中酒じゃない」とか言うおかしな人に噛みつかれても、襟首ひっつかんで食事に合う酒をガブガブ飲ませりゃいいのではないでしょうか。まあお里が雑誌畑の僕としては、記事に切り口が必要なのはよくわかります。誰も悪くはない。誰もが素晴らしい。世界は愛に満ちていると心の底から思っているということだけは声を大にして申し上げさせていただきつつ、おかしな人にガブガブ飲ませてダメなら、ご縁がなかったと勝手口からつまみ出して、その辺に転がしておけばよいと思われます。

そんなこんなで「俺は昔ながらの酒が好きだから、本格派を作るのだ」というお酒、僕は好きです。よろしければつまみも出して頂けるとありがたいのですが、もしアレならおいしいつまみを作れる本を見ながら自分で作ります。というわけで、13日に発売したばかりの『家呑み道場』(給食系男子)、よろしくお願い申しあげます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4799311549

2012年10月14日日曜日

新刊「家呑み道場」とチームとしての給食系男子

新刊の『家呑み道場』(http://www.amazon.co.jp/dp/4799312332/ )が昨日書店さんに並びました。前作の『家メシ道場』(http://www.amazon.co.jp/dp/4799311549/ )もそうでしたが、何冊作っても、書店さんに本が並ぶというのは、本当に涙が出るほどうれしいものですが、ユニットで作るというのもまた格別でございます。

年間の書籍の発行点数というのは、ご承知の通りここ数年は横ばい、もしくは減少傾向にあります(http://www.garbagenews.net/archives/1885419.html
)。それも横浜FCのカズのように、年齢からくる体力の限界に挑むようなカッコいいものではなく、BI砲がリングを去った後のプロレス界のような「何をどうしたら」という閉塞的な雰囲気にあふれているわけでございます。新人の著者でなくとも、書籍の企画は通りにくくなりました。「面白いけど、確実に売れるの?」と言われることが増えました。そんななか、何の後ろ盾もない無名の新人ユニットの1050円の本が、バンバン刷られて書店に平積みになるということ自体、奇跡的です。

メディアがどこまで閉塞感にさいなまれているかというと、例えば「紙」の世界でば、「雑誌」というカンバンの存在感が薄くなり、ネット上に無料の情報があふれ、いわゆるゆとり世代ユーザーからは有料メディアと無料のWebの情報の価値や信頼度が等しくみなされてしまうようになり、無料メディアにユーザーを食い取られた有料メディアは必要な予算も削減され、結果当然のように情報の質が劣化し、一部で本当に有料と無料の情報の差がなくなったり、ごく一部では有料メディアと無料メディアのクオリティの逆転が起きたり、そもそもの情報の価値とはなんぞや的な話がぐるぐる状態。似たようなことはほぼすべてのメディアで起きております。

情報価値の乱高下が起き、ノマドサイコーとかなんだかよくわからない風潮が流行ったりするわけですが、10年以上前にノマド的スタイルで仕事をやっていた人なんていくらでもおりました。FAXメールがない当時にはコンビニでクロネコFAXの送受信を行ったり、週刊誌の担当者に「いちいち宅配便送るとき、宛先確認しなきゃいけないの面倒だから、固定の住所を持て」と露骨にイヤな顔をされたり、揚げ句に当時従量課金制だったPHSでつなぎっぱなしで寝落ち連発して、ドコモ先生から10万円単位の明細書を頂いて頭を抱えたり、某週刊プレイボーイに「ネットカフェなら暮らせるぜ」的企画を出したところ、「そんなことやってるのマツーラくんだけだよ」と一蹴されるという、もう涙なしでは語れない足軽時代の記憶が甦ったりするわけですね。ああ、お恥ずかしい。

例によって激しく話が逸れました。話を元に戻すと、まともな情報を提供しようとするとコストがかかるのは当たり前の話で、作ろうとするとカネか人か時間か何らかのコストがかかり、技術が必要わけです。ところがいまはコストをかけたものづくりがむずかしい。人や時間や技術を何とかしようとしても、結局カネがかかるのは企業のM&A戦略を見ても明らかなわけです。そうこうしているうちに技術を持っている人が現場からいなくなっってコンテンツ崩壊、と。なんだか元切込隊長風の話になってきましたが、あくまで『家呑み道場』の話だということを忘れてはいけません。

必ずしも流行るとは限りませんが、結果を見るとまっとうなもののほうが一定の成果を上げやすい。そのまっとうなものを作るには、技術も含めたコストがかかる。「給食系男子」という趣味のユニットが、ちょっとだけ世の中に出ることができたとすれば、本来かなりのコストがかかるノウハウや知見、愛情を「趣味」だからと本に惜しみなく注入したこと。『家メシ道場』のとき、ディスカヴァーさんから頂いた企画も本当に僕らに合っていたし、当初メンバーが引くほど刷ってくださったのも、僕らのような無名のユニットにはとてもありがたいことでした。

ひとりずつでは、当然料理のプロにもレシピのプロにもかなわない。でも、料理は好きだし、メンバーには実家が農業を営んでいたり、仕事で「食」に関わる人もいる。「食」に関する知見は、人数がいてフィールドが違うからこそ、積み重ねられるものがあるわけです。

本づくりという面では編プロである弊社のエースが僕をこきつかったりしながら、知恵を絞って愛情を注ぎ込めば、何とかなる。いわゆる「プロ」との差別化や、新しいレシピの開発につながるような、調理の科学的な資料も趣味で集めていたし、それこそ周辺にはレシピのプロもいる。おまけに読者にどう届けるかというコミュニケーションに知見のある人も周囲にいて、六合さんを筆頭にソーシャル展開が上手な人もいれば、五合さんのようにアナログコミュニケーションも上手い人も。そのほか九合さんのように流通の見地からアイディアを出せるメンバーもいます。

実際、メンバー構成のバランスの良さはいろんな形で伺えて、話を詰めるときのようにピリピリムードになりそうなとき、場を丸めてくれる四合さんがいて、誰もモノを言えなさそうな重苦しい空気になりそうなとき、口火を切ってくれる十合さんもいる。毎月イベントができる「場」を作ってくれる一合さんがいて、イベントなどで料理の手に困ったら、預けられる八合さん、十合さん、壱壱合さん、十二合さんなどなどいろんな意味で精鋭ぞろい。さらにオッサンだけだと見た目がしんどいところ、ピチピチの若者一合半くんや十三合さんがなぜかいる。

そこに、食べ物に強固な愛情を持つ二合さんが「食べ物愛」を注入してくれて、「カンタンなものしか作れない……」と時折、自信なさそうにしている二升八合さんのおかげで、時に偉そうなレシピになりそうなところに歯止めがかかる。「惰性」になりそうなときには、新しいメンバーが参加して、またユニット自体が活性化するわけです。

それぞれの役割がまたがっていたり、多岐に渡っているので、「あれだけやったんだから」ときどきカン違いしそうになったりもします。メディア慣れしていない素人集団なので、時には調子に乗ったりもしてお恥ずかしい姿をお見せしたりすることもあります。こうした状況に慣れていないもので何卒ご容赦をお願いしつつ、掲載レシピをあれこれアレンジして楽しみながら作って頂けると、友達が増えたような気分になって、僕らはとてもうれしく思います。

新刊は、東京では比較的店頭に並んでいるようですが、郊外などでは書店にまだ並んでいないところもあるようです。お手元に届いていない方、申し訳ありません。日本では、一日あたり平均約200冊、年間7万冊以上の新刊が出版されていて、初版をビックリするほどたくさん刷って頂いたのに、なかなか「ほしい」という方に行き渡らないのが実情だったりします。

もし「ほしい!」という方は、どうぞ書店の店頭やお電話で「家呑み(家メシ)道場って本、ありますか?」お問い合わせください。すると僕らの目標である「売れたらみんなで温泉!」に、一歩近づけますもので、どうぞよろしくお願い申しあげます。

2012年10月12日金曜日

IMFと和食文化とヲタク文化



ゲスト一服、銀座の食に満足げ 日本開催のIMF・世銀総会
2012.10.11 05:00   
 東京・銀座の老舗レストランが一堂に会し、国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会で来日しているゲストやその家族を対象とした試食会「IMFイン銀座」を10日、開催した。

 すしや天ぷら、日本酒など日本食から中華料理、スペイン料理まで、世界中の食文化が集まる銀座をPRしようというもので、日本食レストラン海外普及推進機構と銀座料理飲食業組合連合会が共催、11日まで開催している。

http://www.sankeibiz.jp/business/news/121011/bsd1210110501000-n1.htm

「天一」や「赤坂璃宮」「寿司幸本店」「スペインクラブ銀座」など16店舗が参加しているという、このイベント。他に「伊勢廣」「梅林」「三笠会館」「キハチ」「つばめグリル」など、名だたる名店が出店していらっしゃるようで、バランスのいい出店になったんじゃないかと思われます。

こうしたイベントに際しての出店依頼は、作業自体困難を極めることが多いと思われます。いまの「日本の食」が海外からどう見られているか考えた時に、残念ながら「放射性物質」を抜きに考えるわけにはいきません。「海外から要人を招く」とき、何らかの安心できる保証は必要不可欠。今回は形として「政府の保証」のある「一定の評価を得られた店」、「一定の規模のチェーン」を選び、交渉していった結果、このラインナップになったと思われます。

きっと当初の企画案には「星」なども、セレクト基準案として出たのかもしれませんが、「外資系のタイヤ外車にそこまで与していいのか」などの意見や、店舗から断られたりして、今回の店舗に落ち着いたという妄想がむくむくと湧いてくるわけでございます。まあ、雲の上で起きていることはよくわかりません。

「もっといい店があるじゃないか」という意見もおありでしょうが、サービスに対する満足度や味覚の基準は、主観的なものしかないので、いい落とし所だとは思います。

といっても、こういうことがあるたびに、いちいち担当さんや広告代理店さんが、東奔西走してしまうのもアレなので、そろそろ国立の料理大学とか、ポップカルチャー研究所とか、国策として研究機関を作ったほうがいいような気がします。「権威ある主観」を土台にするのではなく、客観的な事実を大量に積み重ねたものをベースにした考察を主観に導くような文化研究機関。

マンガで言うと、漫画評論家の伊藤剛さんが「ぼくら語り」「マンガ語り」から「マンガ論」へ、と言っていたのと似ているかもしれませんが、マンガにしても「(賞などの)権威による主観」×「読者の人気」がメインストリームになっている側面はありますし、その歴史的・文化的背景からしても料理よりは掘り下げやすいので、市井の研究者が育ちやすい側面もあるのかもしれません。実際、京都精華大学などは研究機関というより、養成機関という側面が強いものの、「マンガ学部」を立ち上げています。

そうした動きを国策でさらに強化して、体系的にまとめながら、発信力を強めていく。「日本食」と「マンガ」は、海外に発信しうる数少ない日本のオリジナルコンテンツです。料理にしても、バブル期などカネがジャブジャブしているうちに体系だてておけば、もっといいタイミングでユネスコの世界遺産に「和食」の登録申請が出せたのではないかという気もします。(まあ、バブル当時のムードとしては無理だったとは思いますが)
http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qaetc/20120208-OYT8T00784.htm

若者が「夢も希望も持てない」とか、それが少子化の遠因じゃないかとかあれこれテキトーな妄想は膨らますことができるにしても、「勝ち組になりたい」という若者が上を見た時に、すぐに天井が見えてしまうのは、ちょっとよろしくありません。「叩き上げ」の力が必要だとしても、対抗軸としてのエリート育成プログラムがあれば、より文化は強固に、深くなるじゃないかとか、そんな声がもうちょっと大きく聞こえてきてもいいような気がします。

海外と勝負できるジャンルに、きちんと人材を育てる土壌がないのは、やはりとてももったいなく、食文化もヲタク文化も、オリジナルコンテンツとして日本が圧勝し得る数少ないジャンルなのになあ。がんばれ、Tokyo Otaku Mode(https://www.facebook.com/tokyootakumode )なんてことを考えながら、今夜も打ち合わせと称して、夜の街へと繰り出してまいる所存です。ヒック。

2012年10月11日木曜日

【メモ】うまい/うまくないコミュニケーションを考える



最近あちこちで、内輪のコミュニケーション手法をパブリックな場に持ち出す人を見かける。どうもうまくない。学生や子どもならまだわかるが、40代以上の立派なオトナがだ。だがリアルにせよ、ソーシャルにせよ、全員が知り合いではない場で場の一部にしか通じないコミュニケーション手法を持ちだして、内輪ウケを狙おうとしたり、自分の居場所を確保・アピールしようとしたとき、蚊帳の外に置かれた人を傷つけたりしないかとか、自分の振る舞いが外からどう見られるかとか考えないんだろうか。

――。たぶん考えない。僕もそうだ。いまはなるべくしないように心がけているけど、それでもやってしまっていると思う。特に20代など、自分に決定権がない(と思い込んでいる)ときには、内輪受けで安心したがったり、その場のエライ人――決定権者に喜ばれるような行動を取りがちになる。でも「決定権者」とは誰なのか。

実は人ではない気がする。「場」なんじゃないか。

どうもカン違いしている人が多いように見えるが、最後に「よし、こうしよう」と言葉を発するのが、決定権者ではない。敢えて「誰」とするならば、そこに至る過程を考え抜き、納得できるよう伝達できる能力がある人が「決定権者」とmやすい。だが、そもそも「決定権」という概念自体、便宜上必要だから使われているにすぎない。

そもそも世の中に本当の意味での「決定権」などない気がする。手続きや組織運営上必要だとしても、本来そこにあるのは「決定責任」で、決定するという行為自体、権利でもなければ偉いわけでもない。決定したことにケツを持つことこそが重要なんじゃないか。だいたい「決定権者」という言葉が頻繁に使われるコミュニティは、寿命が短い。

資質としては、「最適なプランを考えぬく能力があり」、「人の話に耳を傾け」、「いい意見が出たら、自分の意見を瞬速で取り下げ」、「いい意見に乗っかり」、「場をコントロールできる」人が「決定権者」になりやすい。結果としてエラくなるのは、「決めたことに責任を持つ」という、本来当たり前のことをやり続ける人が多くなる。

いかん。最初に書こうとしたこととかなりズレた。書きたかったのは、コミュニケーションのズレの話だった。

小さなコミュニティにありがちなのは、「決定権者」と思しき人に露骨にすりよってコミットしようとする人や、パワーゲームでそこを支配したがる――「決定権者」になりたい人だ。そういう人は、視野が狭かったり、写真用語で言う被写体深度が浅いことが多い。

昔、何かの音楽誌でどこかの大物アーティストが「ステージに立ったら、一番後ろの客の目を見るんだ。次に一番近くを見る。逆の順番のこともあるけど、一番後ろの客を決してないがしろにしちゃいけない」とステージに立つ時の心構えを説いていた。バンド小僧だった僕は「そんなん見えるかいな」と思ったが、試してみると不思議と見えた(ような気がした)。

当時、上手いコミュニケーションがはかれたかはわからない。ただ最前列の客ばかりに目をやっていたときとは、違うコミュニケーションができたとは思う。

以来、できているかどうかは別として、飲み会でも何でも「最後列の客」をなるべく気にかけるようにしている。最前列にばかり懸命にコミュニケーションをする人や、内輪のコミュニケーションにばかり腐心する人が、「決定権」を持ったのを見たことがない。

実は一番シビアな客は、最後列にいる。

ところで、以下のニュース、リライトがかかっているっぽく、「決定権」と橋下代表が言ったかはわからない。このレベルで言葉尻を捕まえられるようなエラーはやらかしそうにない気もする一方、雰囲気としてはそう言いそうな気もしないでもない。本来、目的さえ正しければ、言葉尻や手段はどうでもいいとは思うが、一方でうまいコミュニケーションを成立させることなく、目的を果たすのもまた難しい。


橋下代表「決定権は自分に」 日本維新、初の全体会議 
「日本維新の会」初の全体会議に臨む、橋下徹代表(中央)ら(6日、大阪市住之江区)=共同
 橋下徹大阪市長が代表の新党、日本維新の会は6日、所属する国会議員と地方議員による初めての全体会議を大阪市内で開いた。橋下氏は終了後の記者会見で「最後にバランスを取って決定する役割は自分にある」と述べた。今年度予算の財源を裏付ける赤字国債発行法案について「政局や解散に追い込むのに使うのはやめる」との考えを示した。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDE06001_W2A001C1PE8000/

2012年10月9日火曜日

イギリスの食は変わったのか?

テレビ東京「モーニングサテライト」10月2日(火)放送分での
「イギリスで食を改善する動きが広がっている」という特集。
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/nms/feature/post_27904

イギリス人への街頭インタビューで「つまらない料理」「質が低い」というナイスコメントを引き出して、「イギリス人ですら自虐的な印象を語る」という見事な前フリから、「五輪にのぞむにあたり、自国の食文化を改善しようという、食料改善団体サステイン」へとつなげるあたりは大変に(民放として)素晴らしい。

さすが、何があろうとも自局の編成を守り続ける、民放の良心、テレビ東京のさらに良心的番組「サテライト」系(今回は「モーニングサテライト」)。

ただし、「イメージ改善を目指すイギリスの食」というアナウンスは随所に盛り込まれていたものの、前半はサステインの活動はちょこっとで成果のレポートはなし。中盤は「キャピタル・グロース計画」という都市農園計画の話。後半はワイン産業、とりわけファンド業からワイン生産者へ転身した人のルポ。

うーむ。全体としてイギリスの食が大きな転換点を迎えているようには見えず。メイン業務が週刊誌のライターだった頃、ちょっと強引に企画に合わせた形で複数の事例を組み合わせる手法はよく使わせていただきましたが、もう少し全体の流れは美しかったような気が。このあたり、企画が単に強引だったのか、それとも編集の問題で本当に全体としての「イメージ改善を目指すイギリスの食」ムーブメントが起きているのか。どっちなんだろう。詳しい方にぜひ教えを請いたい。

ちなみにWiki先生によれば、イギリスの自給率は70%と高く、機会化された集約農業が主流とのことなので、農産物の質全体を上げるには、相当なイノベーションが必要になると思われるのだけれど、「食」の進化という意味では飲食店が進化すれば済む話でもあり、はてさて。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88#.E8.BE.B2.E6.A5.AD.E3.81.A8.E6.BC.81.E6.A5.AD

実際、最近イギリスに行った人や、イギリス食に詳しい人に話を聞くと、最近のイギリスの食は、マジで改善されているっぽい雰囲気もあるので、何かの機会に最近のイギリスごはんを、ぜひ本場でいただきたいものでございます。

2012年10月8日月曜日

秋なのに、宇都宮と浜松の春(餃子)

原稿を書くたびに「食に詳しい編集・ライターの」とか「食文化に詳しい」と大振りなリードをつけていただける、NEWSポストセブン先生向けに7月頃、宇都宮と浜松の「餃子バトル」について書いたことがある。
http://www.news-postseven.com/archives/20120718_128707.html
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120718-00000020-pseven-soci

要は総務省の家計調査で、「2011年の餃子の世帯あたり購入額日本一」で浜松市がトップの座を奪取し、「ギョーザの町」宇都宮は2位に陥落したとか、そのニュースが宇都宮の地元紙、下野新聞の一面を飾っただとか、揚げ句に宇都宮が市民に檄を飛ばすWebを作ったという、メディア的に言うと「ヒマネタ」だったが、思いのほかご好評を頂き、いやビックリ。

実はそれ以前から(餃子界においては)宇都宮と浜松の間に結構な摩擦があったと言われている。どちらも長く地元に根づいていた餃子を街おこしに使ったという点では同じだが、1990年代から餃子で街おこしを行い、その後、地元の餃子店が地道に活動し続けてきた宇都宮と、2000年代中頃になって街おこしのネタを探し、独自調査を持ちだしてでも「とにかく盛り上げよう!」という浜松の間には、理念らしきところ温度差があり、その差がイベントなどの活動に現れ、感情のもつれが生じるようになってしまった。その間を、2011年に「餃子サミット」の主催地となった三重県・津の担当者が取り持ったという話。
http://www.news-postseven.com/archives/20121007_147393.html
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121007-00000017-pseven-soci

2012年に行われた「浜松ぎょうざ祭り」に、初めて「宇都宮餃子会」の加盟店が出店し、めでたく「雪解け」と報じられたわけだが、NEWSポストセブンの原稿はYahoo!ニュースにも配信されていて、月間45億PVを叩きだすとYahoo!トピックスに拾い上げられた。ここに拾われると、記事の拡散力が文字通りケタ違いのものとなる。といっても、TwitterとFacebookでは微妙に好まれるネタが異なる。まったく同じ原稿を配信していても、驚くほど反応が違う。

TwitterとFacebookというクラスタごとに、好まれる情報や切り口が変わり、それに応じてリーチの範囲が変わる。マーケ的に言うと、Yahoo!ニュースとNEWSポストセブンにおけるユーザー定性の違いが、そのまま反応の違いにつながる。Y!のほうはライトユーザー、「浜松が餃子? うなぎじゃないの?」となり、ポストセブンでは「こういうバトルはプロレス的」となる。言い換えればY!はテレビ的でありPUSH型のメディアであり、ポストセブンはより雑誌的なPULL型のメディアとも言える。当然、ユーザーの反応やアプローチの仕方も異なる。

ちなみにY!同様、ポストセブンのフィードがされているAmeba Newsは行動特性として主婦ライクなユーザーが多く「アメーバなう」のコメントを見ると、「私は××が好き」とか「餃子はあまり好きじゃない」というような極私的or限定された周囲のコミュニティ相手なら聞こえても聞こえなくてもいいや的コメントが多い。

さらにちなみに、アメーバで「なう」「アメブロ」「Twitter」「FB」へのフィード、もしくはいいね数を見ると、5:1:2:3の比率となっていて、アメーバにしてはFBの「いいね!」の多さが目につくものの、このあたりはユーザー数の変化とも関わるとこなので、もう少し様子を見てみることに。(※ポストセブンはTw1:FB2、はてブ0.25)。ただB級グルメに絞っても、カレーはTwが多かったり、節約ネタはアメーバが強かったり、チャネルとフィード先の関係はさまざまな要件であれこれ変わるようで、僕のつたないエクセル能力よりも感覚値で捉えたほうが正解に近いことが多いのが切ないところです。うむー。

本来、マーケというより、コミュニケーション領域の話でしょうが、マーケティングはソーシャルコミュニケーションのメタ視点であるNAVERまとめのようなものとも言えそうな気もするわけで、書き手としての僕はマーケとコミュニケーションを領域わけすることの意味を見出せません。

ちなみに、Y!にもポストセブンにも共通するのが、次のような感想。
https://twitter.com/funnyfunny22/status/255170387967619072

「どうでもいいけど、面白い」と、ユーザーさんに反応してもらえるような原稿を狙って書くのはとてもむずかしい。単に「どうでもいい」だけでは読者は何の興味も示してくれない。「面白」くするには目線を高くしちゃうのがラクですが、高くなり過ぎると反発をいただき、意味のない(もしくはネガティブな)炎上につながる。結局のところ、世に向けて何らかのボールを投げるというのは、友達に「あいつ、面白くて、いいやつだね」と思ってもらうのと同じくらい、難しいコミュニケーションなわけで、つまるところ一生懸命「いい」「面白い」に誠実なボールを投げ続けるしかないというわけでございます。

ただ、自分で書いておいて言うのもアレですが、某大陸方面で日本大使館や領事館の窓ガラスがガンガン割られたり、リアル炎上が起きたりしているなか、国内のネットで起きている事象を「炎上」と呼びつづけていいのかは、激しく悩ましいところですが、そんな世の中的にはわかりきったひとりごとを商業媒体で書くわけにもいかないので、こんなとこでこそこそとBlogにUPしてみるわけでございます。