2013年3月6日水曜日

シェアとドラマと男と女

【All About News Dig】連動エントリー
以前、「おトイレごはんな若者(後編/本論)」というエントリーを書いたときに、「共食をするのは人間だけ」「個食がコミュニケーション能力の育成を妨げている」という話に触れました。

といっても、共働き家庭が増え、少子化が定着したいま、家庭で「共食」を育むのは難しい面もあります。未婚率も高止まりしたままですし、学校給食や寮生活なら「ともに食べる」ことはできても、料理を作る、片づけるなど、「共食」に欠かせない周辺能力の向上も見込めない。まあ、いい年をして、仕事や趣味にばかりにかまけている僕が言うことでもありません。すみませんすみません。

「血縁」「地縁」を中心とした、昔ながらのコミュニティに加えて、ネットやソーシャルメディアで人間関係が構築されるようになった最近では、別の特徴が際立ったコミュニティも生まれてきています。例えるなら「稼縁」(年収が近く、暮らし向きが似ている層同士によるコミュニティ)、「属縁」(趣味や仕事など、属性が近いもの同士によるコミュニティ)とでも言いたくなる集合体の形です。



先日、東京新聞で「シニアにも人気 シェアハウス」という記事を見かけました。高齢者と若者がひとつ屋根の下で暮らすという、まるで三世代同居のようなスタイルが生まれてきているのだとか。収入が少なかったり不安定な若者と、おそらく年金暮らしであろうお年寄りが共同生活を行なっているというのです。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2013022002000159.html

いま放送している連続テレビドラマ「シェアハウスの恋人」でも「稼縁」とも思える設定は見られます。物語は、主演の水川あさみ(事務職)、谷原章介(離婚して失職)、大泉洋(スーパーの店員)が、それぞれ異なるきっかけでシェアハウスに暮らすようになるというで展開されます。



ドラマのスタート当初には、おそらく説明も兼ねてでしょう。「食べ物・飲み物には各自が記名し、人のものに手をつけてはならない」という、シェアハウスのひとつの特徴が描かれたシーンがありました。ところが、ともに暮らすうちに、大泉洋演じる川木辰平(シェアメイト中、唯一の料理好きという設定)が他の二人に食事を振る舞うようになります。回を追うにつれ、一緒に料理や片づけをしたり、3人で食卓を囲むなどのシーンなども目につくように。正体のわからない「エッグベネディクト」を水川あさみと大泉洋がともに作り、谷原章介に振る舞うシーンなどは、一昔前なら「家族」をモチーフに描かれそうなシーンでした。

「家庭での食事」には、準備も片づけも必要です。誰しも「サザエさん」的な血縁での食事シーンでは、もはやリアリティを感じさせられません。例えば、上戸彩、飯島直子主演の「いつか陽のあたる場所で」の作中でも、屋内での食事シーンは「前科持ち」のふたりがどちらかの家を訪れ、身を寄せ合うようにして食べる「食事シーン限定シェア」とも言える光景が描かれています。

瑛太、尾野真千子らが出演する「最高の離婚」に至っては、離婚したにも関わらず、同居を続行し、食卓をともにするふたりの姿が描かれています(しかも瑛太のほうが細かく、尾野真千子のほうが大ざっぱ)。元夫婦によるルームシェアという奇妙な関係は、今後のふたりの成り行きを暗喩しているのでしょうか。そういえば、つい先日までWOWOWで放送されていた「女と男の熱帯」でも、ふたり暮らしをする渡部篤郎と息子の家を訪れた藤原紀香がおぼつかない手つきでカレーを作るというシーンがありました。

その他、いずれのドラマでも、食卓を囲むシーンに「料理をする」「片づけをする」など前後の風景が描かれています。「家族」をはじめ、コミュニティの形に変化が伺える現代でも、食卓を囲むために必要な作業はあるはずです。だからこそ、ドラマにリアリティを生む「食卓」のシーンは、人間関係を象徴するための装置として、ひんぱんに使われるのです。

実生活でもドラマでも、強固なコミュニティには「共食」という場面が必ずあります。それは「シェア」という、まだありかた自体が明確ではないコミュニティにおいても変わりはないはずです。「食」は誰かとともに過ごすための最強ツール。その準備から片づけまでをともに行い、コミュニティのなかで「共食」を完結させることでその関係はよりしっかりしたものになるはずです。

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